東アジア国際秩序から見た明治維新

明治150年が喧伝された年も残りひと月余りとなった。このキャンペーンが政権浮揚の一助としてあからさまなリビジョニズム(歴史修正主義)のもとに主導されたイデオロジカルなイベントに過ぎないことは明らかだったが、しかしその一方で、まことに杜撰な「歴史認識」が国民のレベルでは十分な議論も経ないまま、否定も肯定もされずに、その歴史意識の(あるいは歴史意識を欠いた日常感覚の)土壌に徐々に浸透しつつあることにうすら寒い思いを禁じ得なかった。どのような視点からであれ、「日本史」という擬制のカテゴリーをいったん括弧にくくって考えるトレーニングを経験したことのない「国民」にとって、日本の近代史は、西欧列強のアジア侵出(ウェスタン・インパクト)に対する危機感が近代国家への胎動に昇華した物語として、明治維新を起点とするものとならざるを得ないだろう。それ以降の過程は、「五日市憲法」を象徴的な成果とする自由民権運動の様々なベクトルを含めて「多元的な可能性」を見逃すべきではないとはいえ、総体としては植民地帝国主義の形成と崩壊と再編の過程としてとらえられるべきものだろう。ちなみにこのうちの再編の過程を十二分に凝視しつくせなかったことが、戦後民主主義の脆弱さをもたらした所以だとも思う。

では、植民地帝国主義の起点としての明治維新とは、どのような歴史的な位置づけにおいてとらえられるべきものだろうか。

上述のように、明治維新ウェスタン・インパクトに抗する国家的自立のプロジェクトとして見る限り、アジアで最初に「近代化」に成功した国としての国家像がどうしても前面に出てくることになる。「アジア的停滞」の軛を打ち破って近代化へ邁進したプロセスを自明のものとしてとらえようとする立場は、マルクス主義的な歴史観においても、前提となるものだ。労農派と講座派の間で交わされた「日本資本主義論争」にしても、明治維新を市民革命と見るか見ないかという論点自体が、それを近代化の起点としている点で一国史の枠組みからまぬかれえていない。

明治維新は、日本史という枠組みではなく、東アジア史の視点からとらえなおされなければならない。そのとき、明治維新に関してどのような歴史認識が浮かび上がってくるだろうか。

手掛かりは所謂「征韓論」である。明治新政府内の熾烈な権力闘争を背景とするこの一連の事態の始まりは、朝鮮に対し新政府成立を告げた国書に「皇室」「奉勅」等の語があり、それに朝鮮が反発したことから生じた外交問題であった。これを近代化に後れを取った朝鮮の前時代的な反応とする「常識」が未だにまかり通っているが、実はこの国書が東アジアの国際秩序に対する重大な侵犯行為であったことは看過されている。「皇」も「勅」も中華皇帝にのみ許された文字であって、現に江戸幕府の近隣外交も「日本国王」の名においてなされている。東方礼儀之国としては、朝鮮を格下に見る国書のありようは、自国への侮辱であるばかりでなく、中華皇帝を権威の中心として成り立っている東アジアの国際秩序への暴力的な介入としてとらえられたのではないか。もちろん朝鮮半島への侵出を説く吉田松陰以来の思想潮流も、朝鮮政府の危機意識を醸成するのに一役買っていただろう。

ところで、「征韓論」の首魁とされる西郷隆盛が朝鮮への派遣を申し出、烏帽子直垂姿でことに当たろうとしていたというエピソードは、ひょっとしたら彼がこの外交問題の本質を理解していたことの表れかもしれない。烏帽子直垂を西郷の前時代的な意識のしからしむるところと見てしまいがちだが、彼には江戸期の善隣外交の枠組みに立ち返って問題解決に当たろうとする発想があったのではないか。それを朝鮮政府に対して可視化しようとするパフォーマンスが件の烏帽子直垂だったのではないか。

それはともかく、この国書の一件でもわかるように、東アジア史の視点からすれば、明治維新は、東アジア地域の国際秩序へのノイズとみなされるものなのである。ノイズはやがて騒がしさの度合いを増しながら、あからさまな暴力へと変貌を遂げる。一国史の枠組みでは、近代国家の成立を成し遂げたと評価される歴史が、全く異なる相貌を帯びて立ち現われてくるのである。もちろん東アジア国際秩序の中核にあるべき中華帝国自体が、欧米列強の力の前にその土台を大きくゆすぶられつつあったわけだが、列強の帝国主義の論理と東アジアの伝統的国際秩序の相克という事態のもとで歴史は進行しつつあった。

そして、二つの秩序の激しいぶつかり合いを前にして、いわば漁夫の利を得ようと国家体制を整えたのが日本の明治維新であったと言っていいのではないか。アジアでいち早く近代化を成し遂げたというのは、言い換えれば、長い時間をかけて培われてきた国際秩序と善隣外交を弊履のごとく脱ぎ捨てて、なんら迷うことなく欧米列強と同じ植民地帝国主義の論理を身にまとったということに他ならない。

そもそも「日本史」という枠組みは、近代国家成立後の「常識」から過去をアレンジしようとする「欲望」そのものである。縄文時代のような国家成立以前の歴史を日本という国号のもとに語ろうとすること自体が、すでに騙りにすぎないだろう。つまりは、「日本史」という枠組みこそが歴史修正主義の跋扈を許す土壌なのだ。ナショナルな歴史は存在するだろう。しかしそれは常にインタナショナルな関係史との緊張のもとに語らるべき歴史である。(また、網野善彦の業績のように日本の歴史を複線化しようとする試みも深い意義を持つものだろう。)

未開の「アジア」という荒野の只中に突如として現前した近代国家「日本」という物語は、確実に「国民」の自尊感情に働きかけもする。しかしこの「美しい」物語を解体する要素が物語の外部に数限りなく存在するとしたら、それは紛うことなき「恐怖」だろう。歴史修正主義とは、この「恐怖」からの必死の逃走なのだ。「事実への恐怖」に発する歴史修正主義反知性主義と親和性が高いのもこの必死さのもたらす結果だ。しかし、その情動的な歴史語り/騙りの蔓延力は「事実への忠誠」をはるかにしのぐものでもある。一国史という「エコーチェンバー」が言説の場を構成してしまっているからだ。

この現状を打破していくのは容易な業ではないだろう。鍵は、欧米中心の近代史観とは違う「新たな世界史」との連帯のなかにしかない。その最初の扉を開くためにも、東アジア史の視点でナショナル・ヒストリーを見直す姿勢が求められる。そして東アジアの国際秩序の発展形態としての「もう一つの近代」を今日的な課題として構想する視点を立ち上げねばならない。それは、「歴史」をショウビニズムの下僕の身分から解放し、未来を構想する起動力としての本来の位置に戻すための営みである。

ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』を読む

重厚長大とも称すべき著作を何とか読み終えることができた。とはいえ、全3冊(9ポ二段組み一冊ほぼ500~600ページ)にも及ぶこの大作をうまく要約して紹介する手わざを持ち合わせているわけではないので、自分なりに理解できた範囲での読後感を記してみることにする。

「朝鮮の人びとの和解と統一のためにこの書を捧げる」(同書2上)という献辞を記した著者の基本的な認識は、朝鮮戦争は「内戦」であったということである。これは「アメリ南北戦争」とのアナロジーを伴いつつ語られる認識でもある。そして、本書によれば、戦争は1950年に突然始まったのではなく、38度線を挟んだ軍事衝突は前年においてすでに始まっており、そればかりかその起点はさらに日本の敗戦による解放の時点にまで遡及される。ここで「内戦」と性格付けされる事態は、北と南の軍事的衝突だけを意味するのではない。もちろん歴史的「事実」としては、両政権の行使する軍事力とさらにはその背後にあった中国とアメリカの軍事力が入り乱れて戦われた戦争であったわけだが、これが「内戦」たるゆえんはそこに至るまでの歴史的過程において、朝鮮社会の内部における熾烈な階級的対立が継続的に繰り広げられていたことにあるのである。

対立の一方の勢力をなすのは、旧社会の両班階層に出自を持つ地主階級であり、植民地時代の支配権力と親和的な関係を築くことで既得権の維持に汲々としつつ命脈を保ってきた存在である。そしてもう一方に位置するのが、小作人や零細農民を中心とする封建制下での被支配階級で、過酷な植民地期の苛斂誅求のなかで貧困や離散を余儀なくされてきた人々であった。これらの人々は、朝鮮総督府によって強制的に推進される「近代化・工業化」の過程で土地から分離され、安価な労働力として大規模の「移動」を余儀なくされた。そのような「人口動態」が最も顕著に見られたのが、慶尚道全羅道などの農作地帯であり、解放後、労働者としての経験を積んだ帰還者が多かったのも当然これらの地域であった。解放と同時に朝鮮全域に誕生する多数の人民委員会の活動(農地の公正な分配等)が盛んであったのもこれらの地域で、農民・労働者たちと独立闘争を担った活動家たちが結び付いていったことの結果であった。人口動態の統計に基づきながら、解放後の歴史の推移を叙述する手法は、この著作の白眉とも言っていい。これらの人民委員会を基盤として呂運亨らの手によって「朝鮮人民共和国」建国の宣言を見るのであるが、朝鮮半島に進駐してきたアメリカ軍は、この朝鮮人の自主的な政権を受け入れようとはせず、逆に旧地主層の利益を代表する李承晩をアメリカの傀儡として利用しようと画策する。それはすでに顕在化しつつあった「冷戦」構造において、「左翼」的な政権の誕生を極力排除しようとする思惑からであった。日帝支配下で独立・解放闘争を担った勢力の中心にあったのは、社会主義者共産主義者の存在であり、朝鮮人民共和国を支える各地の人民委員会の多くはその影響を強く受けていたのである。しかし李承晩の政権は、米軍の「支持」を受けたとはいえ、全国的な支持基盤を持たず、統治を支える物理的な力として、旧植民地時代の官僚組織と警察力にその「存在理由」をゆだねざるを得ないありさまだった。さらにそこに金日成らの共産勢力により土地を奪われた「北」の地主階級の脱北者からなる「西北青年会」のような暴力的な組織が合流し、その結果として、社会の様々なレベルでの軋轢と闘争が激化していく。多くの死者を伴う流血の事態も、済州島を含む朝鮮各地で繰り広げられていった。

本書は、以上のように朝鮮における階級対立を見事に描き出してくれるが、その一方で、アメリカ政府内部での極東・世界戦略における路線対立、ソ連のスタンス、また国共内戦に参戦した朝鮮人部隊の存在と内戦における貢献度、等々といったようなことにも的確な目配りを怠らず、内戦に起因する軍事衝突が拡大し、世界戦争の一歩手前でかろうじて寸止めされた要因にも言及している。そして戦争の渦中にあってさえ自己の利益の保全に余念のなかった地主階級が、結果的に一掃されたことにこの内戦の「革命」的な性格を見出してもいる。

朝鮮戦争は、だから、解放後のこのような熾烈な階級闘争の継続総体としてとらえられるべき歴史事象であって、冷戦という歴史的段階での闘争とはいえ、その性格はまさに「内戦」と呼ぶべきものなのである。だとすれば、本書が「朝鮮戦争の起源」と題されていることの意味も那辺にあるかがおのずと了解されようというものだが、しかし「起源」という言葉に拘泥するならば、やはりここでは、いずれも日帝支配によって作り出された、植民地買弁勢力と半ばプロレタリア化した農民大衆の階級対立に焦点を絞らねばならないだろう。朝鮮戦争の特需によって経済復興の一歩を記した日本の「植民地責任」は幾重にも重いのだ。しかも冷戦構造の進展は、アメリカによる日本の利用価値を否応なく高めつつあり、アメリカが旧満州を含む地域を後背地とする日本資本主義の復活によって、大掛かりな「反共政策」を構想していたとしたら(「北」ではそのような認識があったことが本書で指摘されている)と考えると、「怪物」の復活に対するかつての被植民者の懸念は不合理なものではないだろう。

ことほどさように、朝鮮戦争への日本の「関与」は、その植民地責任と相俟って厳しく問われなければならない事柄であった。それを不問に付してきた戦後日本のあり方を、朝鮮戦争の「終結」を目睫の間に控えた現情勢のもとで凝視しなおさなければならないと痛感する。

3・1独立運動100周年キャンペーン講演会

昨夜首都圏は突然の雷雨に見舞われるあいにくの天候だったが、文京区民センターまで足を延ばし、3・1独立運動100周年記念キャンペーンの第2回講演会「朝鮮半島の『大転換』と日本の進路」と題する講演会に参加した。

演者は、権赫泰聖公館大学教授と中野敏男東京外語大学名誉教授で、前者が「4.27板門店宣言、6.12米朝共同声明後の朝鮮半島・東アジア情勢と日本の問われる課題」、後者は「継続する植民地支配に抗し『第三世界』というプロジェクトを今想起する」というテーマでだった。

権赫泰の話については、事前に彼の著書『平和なき『平和主義』」を読んで「予習」してきたこともあってよく理解できたが、朝鮮半島情勢に関して朝鮮戦争終戦宣言に「時期尚早」なる立場を臆面もなく表明する日本政府の立場とそれを下支えしている世論が、戦後民主主義のありかたに起因しているという指摘について、予想外の指摘だと思った聴衆も多かったかもしれない。進行役のコメントがそれを物語っていた。

中野敏男の「第三世界」論も面白かった。朝鮮特需後の賠償特需の存在を可能にした米国との共犯関係によるアジア諸国への「賠償」に名を借りた反共独裁政権支援が、形を変えて日本の植民地帝国主義を延命させたという指摘も、権赫泰の戦後民主主義批判と相まって、ダイナミックな歴史認識を指示しているように思われた。中野敏男が、新自由主義による荒廃を超えるための「第三世界」論をどう構築するのか、注目したい。

会場は、例によって、比較的年齢の高い層の聴衆が圧倒的に多かったが、韓国へのユース・スタディツアーの企画について語った「沖縄と東アジアの平和を作る会」の若者のスピーチが良かった。スピーチの途中で席を立ったり、私語したりする「年寄」もいただけに、24歳の彼のすがすがしさが際立った。

戦後民主主義によって普遍化された「平和主義」が、日本自身が関わっていた「戦争」を隠蔽する役割を果たしてしまったこと、およびそれが継続する植民地主義をゆるしてしまったことへの反省が、今強く求められているのだとの感を強くした講演だった。朝鮮半島と東アジアの平和への胎動の時代を向かるにあたって、日本だけが「蚊帳の外」に置かれ、あまつさえ国内での差別を放置しアジアからの孤立と反動の度合いを強めつつあるが、時代はやがて「福祉社会主義」とでも呼ぶべき方向に向かって、マネー資本主義と新自由主義を乗り越えていくのではなかろうか。朝鮮半島の緩やかな統一に向かう南北の動きがそのモデルとして歴史的役割を果たしていくようにも思う。「保守」から「リベラル」まで冷戦時代の思考様式から抜け出せていない状況を批判的にとらえる視座が必要だ。冷戦地図をひっくり返して眺めてみる姿勢を持ちたいと思う。

朝鮮大学校訪問

シンポジウム「関東大震災時の朝鮮人大虐殺と植民地支配責任」の参加のために朝鮮大学校に足を運んだ。なんと43年ぶりの同校訪問になる。学生時代、日朝学生連帯委員会の一員として大会に参加したのだったが、当時の記憶は断片的にしか残っていない。ただキャンパスのたたずまいには見覚えがあり、ある種の懐かしさにしばしとらわれた。

朝大生による演劇をプロローグに5時間にわたるプログラムだったが、登壇者の話はいずれも内容に富むものばかりで、多くのことを学ばされた。とくに慎蒼宇氏の発表は、緻密なデータに裏打ちされた刺激的な分析で、このシンポジウムの白眉といってもよいものだった。関東大震災時の虐殺は偶発的なものではなかったということを、東学党や義兵闘争の弾圧、シベリア出兵、3・1独立闘争弾圧にかかわった師団や将官たちと震災時に派兵されたそれとの重なりを指摘し、植民地弾圧のための「疑わしきは殺せ」の殲滅作戦が、震災時の虐殺に影を落としていることを、詳細なデータをもとに立証していた。自警団を形成した在郷軍人の多くも、同じく植民地への軍事行動での経験を発動させ朝鮮人虐殺を主導していったわけである。

95年前のジェノサイドが単なる歴史的事実ではなく、その背景にあった社会意識が今まさに顕在化しつつあることへの危機感を、どのパネリストも踏まえていたことも、特筆しておきたい。レイシズムヘイトクライムはもちろんのこと、「朝鮮人虐殺はなかった」などの歴史の改竄がすでに一定の効力を発揮してしまっている現状を指摘する声もあった。しっかりした根拠を踏まえつつ、「記憶の人民闘争」に望む覚悟が問われてもいるのだと痛感する。

吉野作造と朝鮮

昨日は、水道橋の韓国YMCAで行われた大田哲男氏の講演「朝鮮独立運動と日本の知識人─吉野作造を中心に」に参加した。民本主義の本格的な提唱が、吉野の朝鮮・満州への視察と軌を一にしていること、関東大震災時に吉野も大杉栄らの社会主義者同様のターゲットにされかねない状況もあったらしいこと、組合協会の朝鮮人への布教計画に朝鮮総督府の機密費が提供され、吉野をはじめ良心的なキリスト者がそれに抵抗を示していたこと等、興味深い事実を知らされた。宮崎滔天が吉野の講演会の熱気を伝えるレポートを上海の新聞に寄稿していたり、上海臨時政府発行の独立新聞に記事が出ていたり、と吉野とつながりを持つ様々な人脈が垣間見える指摘もあったが、それ以上具体的に踏み込んで話されなかったのは、時間の関係もあってのことなのかとは思うが、いささか物足りない面もあった。

会場からは吉野とつながりのあった金性洙や宋鎮禹などの人物が、民族主義右派と目されることから、吉野の思想的な位相をどうとらえるかという問いかけもあったが、これに対しても明確な判断は難しいという答えだった。吉野自身は、当時の状況の中で当面の課題に対して精一杯の提言を行っていたわけで、また吉野と接点を持ちえた留学生の階層(恐らくは旧両班や富裕地主などの出身)から言っても、社会主義者を含めた人脈に接触する可能性は低かったということだろう。あるいは、それを公にするのを憚ったということも言えるだろうか。

吉野の主張が、植民地主義そのものへの否定に踏み込んでいないという点での批判は相当数あるのだと思う。これをどうとらえるか。日本の知識人の植民地認識を丹念に対象化する努力を重ねていかなければと思うが、その意味でも吉野の論文を読み込んでいこうと思った次第である。

1987、ある闘いの真実

韓国映画「1987、ある闘いの真実」を観てきた。1987年と言えば、韓国では全斗煥軍事政権が朴正熙開発独裁を引き継ぎながら、反共を国是とする強権政治を発動しつつ、オリンピック開催を前に国威の発揚に余念のなかった時代。日本がまだバブルの只中にあったころだ。

映画は二人の大学生の死(拷問死とデモ弾圧による死)という史実に基づきながら、検事、新聞記者、刑務官など不正を肯んじない個々の行動が、民主化を目指す活動家や宗教者の手を経て、大きな大衆行動のうねりへとつながっていった様を描き出す。文政権の登場が光州抗争を描いた「タクシー運転手」に引き続き、民主化抗争をテーマとする作品を促しているのだろう。

しかしこの映画は、かつての韓国政府が「国是」としてきた「反共」を支えた情念の所在を垣間見せようとしているようにも感じられた。治安警察の長が脱北者であり、解放時金日成の一派を名乗る勢力から一家を惨殺された体験を有するという設定は、事実に基づくものであるか否かはわからないが、済州島の四・三抗争の際に横暴を極めた西北青年団成立の背景とオーバーラップするものがあるだろう。

映画に登場する治安警察の一室の壁一面に貼られた、金日成金大中、そして多くの活動家の顔写真をつなぐ系統図は、反共勢力が彼らに敵対する(と思い込んだ)者たちを「パルゲンイ」の一語のもとに断罪する発想を見事に視覚化しているように思えた。「あいつは敵だ。あいつを殺せ」という政治原理を先鋭化させ、暴力的に現実化していく存在は、ある種の怨念を支えとしていると言えるだろう。治安警察の長は、拷問に屈しない抵抗者や自分の部下にさえも、その家族の安危を仄めかしながら恫喝をかけていくのだが、その時彼を突き動かしているのは、かつて家族を惨殺された自らの体験に他ならない。実際、それを拷問の際に家族の写真を見せながら語りさえするのだ(そのことによってはじめて我々は彼の背景を知りうるのだが・・・)。

李承晩以来、韓国の反共政権を成り立たしめてきた暗部には、このような存在があったのだろう。それは、独裁体制下の暴力装置であったばかりでなく、ある一定の歴史的経験を経てきた人々のルサンチマンが形作る暗い渦の一部でもあったのではないのか。

そして、日帝による植民地支配と解放、分断、内乱という歴史過程の中で、反共の怨念が増幅され、強度を増していったのだとするならば、日本の植民地支配の罪深さを改めて思い知らざるを得ないのである。

控訴審傍聴その他

昨日のことだが、群馬の森朝鮮人追悼碑訴訟控訴審の傍聴のため東京高裁まで足を運んだ。抽選の結果傍聴券を手にした。審議は午後2時から、被控訴側の付帯控訴の意見陳述だけで、正味1時間程度で終了。被控訴側は、和解に持ち込むために周到な準備を重ねているように感じた。次回は11月2日の予定。

傍聴中に高麗博物館から電話をもらっており、折り返し電話したが、14日の金曜のボランティアの件。了承する。その後再度電話があり、理事にならないかとの勧誘。14日の理事会にオブザーバーとして出席したうえで考えてほしいとのこと。前向きに検討したい旨返答した。

昨日、今日と寄り添い型学習支援の指導にあたったが、いずれの生徒も発達課題を抱え、離席、姿勢崩壊、学習と休息時間のめりはりなど、学習支援以前の問題が目立つ。発達障害の理解とそれに応じた指導のノウハウが求めれているように感じる。困窮世帯への学習支援だが、家庭の教育力の弱体化という課題も潜在しており、発達障害ではなくてもそれによく似た傾向、たとえば中学相当で当然身に着けていなければならないソーシャルスキルの欠損などがみられる生徒も多いと感じる。もちろん、発達障害そのものが疑われる生徒も相当数存在すると思われる。運営側でその点をしっかり把握して、生徒の状況に応じた指導体制をIEP形式で確立するのが急務と言えるのではないか。

先週から読み始めた、ブルース・カミングスの『朝鮮戦争の起源』に圧倒されている。まだ第一分冊の三分の一ぐらいまでしか、読み進んではいないが、朝鮮戦争の起源は日本の植民地統治に尽きるというのが、目下の感想。日本帝国主義からの解放者を錯覚させたアメリカ軍が、「左翼勢力」排除の為に旧親日派の官僚、警察、軍の人材の登用を推し進めた結果、独立と改革を推進しようとする勢力との間に分断を生じさせ、それが朝鮮戦争の遠因となったというのが、ここまで読んできての自分なりの理解である。論の展開と言い、史料の的確さと言い、また皮肉とエスプリを利かした文章の妙と言い、学問の力を感じさせる大著である。