ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』を読む

重厚長大とも称すべき著作を何とか読み終えることができた。とはいえ、全3冊(9ポ二段組み一冊ほぼ500~600ページ)にも及ぶこの大作をうまく要約して紹介する手わざを持ち合わせているわけではないので、自分なりに理解できた範囲での読後感を記してみることにする。

「朝鮮の人びとの和解と統一のためにこの書を捧げる」(同書2上)という献辞を記した著者の基本的な認識は、朝鮮戦争は「内戦」であったということである。これは「アメリ南北戦争」とのアナロジーを伴いつつ語られる認識でもある。そして、本書によれば、戦争は1950年に突然始まったのではなく、38度線を挟んだ軍事衝突は前年においてすでに始まっており、そればかりかその起点はさらに日本の敗戦による解放の時点にまで遡及される。ここで「内戦」と性格付けされる事態は、北と南の軍事的衝突だけを意味するのではない。もちろん歴史的「事実」としては、両政権の行使する軍事力とさらにはその背後にあった中国とアメリカの軍事力が入り乱れて戦われた戦争であったわけだが、これが「内戦」たるゆえんはそこに至るまでの歴史的過程において、朝鮮社会の内部における熾烈な階級的対立が継続的に繰り広げられていたことにあるのである。

対立の一方の勢力をなすのは、旧社会の両班階層に出自を持つ地主階級であり、植民地時代の支配権力と親和的な関係を築くことで既得権の維持に汲々としつつ命脈を保ってきた存在である。そしてもう一方に位置するのが、小作人や零細農民を中心とする封建制下での被支配階級で、過酷な植民地期の苛斂誅求のなかで貧困や離散を余儀なくされてきた人々であった。これらの人々は、朝鮮総督府によって強制的に推進される「近代化・工業化」の過程で土地から分離され、安価な労働力として大規模の「移動」を余儀なくされた。そのような「人口動態」が最も顕著に見られたのが、慶尚道全羅道などの農作地帯であり、解放後、労働者としての経験を積んだ帰還者が多かったのも当然これらの地域であった。解放と同時に朝鮮全域に誕生する多数の人民委員会の活動(農地の公正な分配等)が盛んであったのもこれらの地域で、農民・労働者たちと独立闘争を担った活動家たちが結び付いていったことの結果であった。人口動態の統計に基づきながら、解放後の歴史の推移を叙述する手法は、この著作の白眉とも言っていい。これらの人民委員会を基盤として呂運亨らの手によって「朝鮮人民共和国」建国の宣言を見るのであるが、朝鮮半島に進駐してきたアメリカ軍は、この朝鮮人の自主的な政権を受け入れようとはせず、逆に旧地主層の利益を代表する李承晩をアメリカの傀儡として利用しようと画策する。それはすでに顕在化しつつあった「冷戦」構造において、「左翼」的な政権の誕生を極力排除しようとする思惑からであった。日帝支配下で独立・解放闘争を担った勢力の中心にあったのは、社会主義者共産主義者の存在であり、朝鮮人民共和国を支える各地の人民委員会の多くはその影響を強く受けていたのである。しかし李承晩の政権は、米軍の「支持」を受けたとはいえ、全国的な支持基盤を持たず、統治を支える物理的な力として、旧植民地時代の官僚組織と警察力にその「存在理由」をゆだねざるを得ないありさまだった。さらにそこに金日成らの共産勢力により土地を奪われた「北」の地主階級の脱北者からなる「西北青年会」のような暴力的な組織が合流し、その結果として、社会の様々なレベルでの軋轢と闘争が激化していく。多くの死者を伴う流血の事態も、済州島を含む朝鮮各地で繰り広げられていった。

本書は、以上のように朝鮮における階級対立を見事に描き出してくれるが、その一方で、アメリカ政府内部での極東・世界戦略における路線対立、ソ連のスタンス、また国共内戦に参戦した朝鮮人部隊の存在と内戦における貢献度、等々といったようなことにも的確な目配りを怠らず、内戦に起因する軍事衝突が拡大し、世界戦争の一歩手前でかろうじて寸止めされた要因にも言及している。そして戦争の渦中にあってさえ自己の利益の保全に余念のなかった地主階級が、結果的に一掃されたことにこの内戦の「革命」的な性格を見出してもいる。

朝鮮戦争は、だから、解放後のこのような熾烈な階級闘争の継続総体としてとらえられるべき歴史事象であって、冷戦という歴史的段階での闘争とはいえ、その性格はまさに「内戦」と呼ぶべきものなのである。だとすれば、本書が「朝鮮戦争の起源」と題されていることの意味も那辺にあるかがおのずと了解されようというものだが、しかし「起源」という言葉に拘泥するならば、やはりここでは、いずれも日帝支配によって作り出された、植民地買弁勢力と半ばプロレタリア化した農民大衆の階級対立に焦点を絞らねばならないだろう。朝鮮戦争の特需によって経済復興の一歩を記した日本の「植民地責任」は幾重にも重いのだ。しかも冷戦構造の進展は、アメリカによる日本の利用価値を否応なく高めつつあり、アメリカが旧満州を含む地域を後背地とする日本資本主義の復活によって、大掛かりな「反共政策」を構想していたとしたら(「北」ではそのような認識があったことが本書で指摘されている)と考えると、「怪物」の復活に対するかつての被植民者の懸念は不合理なものではないだろう。

ことほどさように、朝鮮戦争への日本の「関与」は、その植民地責任と相俟って厳しく問われなければならない事柄であった。それを不問に付してきた戦後日本のあり方を、朝鮮戦争の「終結」を目睫の間に控えた現情勢のもとで凝視しなおさなければならないと痛感する。