ゆとり世代の逆襲

ゆとり世代とは、2002年から2003年にかけて導入された学習指導要領のもとで小中高校生活を送った世代だと記憶しています。 そんなことを突然思い出したのはフェイスブックでシェアされた22歳の大学院生の新聞(朝日新聞だったと思います)への投書の中に「ゆとり世代」という言葉が使われていたからでした。

私たちは、平成の時代に生まれた。生まれた時、すでにバブルははじけていた。小学校の時、突然、「ゆとり世代」にさせられ、イラク戦争が起きた。中学生の時、リーマン・ショックがやってきた。高校生の時、東日本大震災に遭った。大学生の時、二度目の安倍内閣ができた。(中略)

少子高齢化の今、私たちは増え続ける高齢者と傾き続ける経済を「ゆとり世代は駄目だ」と言われながら支えなければならない。若者たちの生活は保障されていないのに、たくさん子どもを産み育てろ、という。(投書からの引用)

ゆとり世代」という言葉が、批判や揶揄のニュアンスを帯びたタームとして使われだしたのは、いつごろからだったのでしょうか。当初は、つめこみ教育へのアンチ・テーゼとして、いじめや不登校などの問題へ対処する目的もあって導入されたというのが、「ゆとり教育」の意義だったはずです。そこでは「課題発見と解決能力を養う」というスローガンが高々と掲げられていました。

しかし、「ゆとり教育」は自民党文教族を中心とする勢力から、学力低下の元凶という汚名を着せられ、真にその成果を生み出す前に、まさに「赤子を盥の水と一緒に流す」が如くに捨て去られてしまいました。教育基本法の改悪に着手した第一次安倍内閣が「ゆとり教育」を葬り去ったのです。以来、「ゆとり世代」と名指しされることで、彼らや彼女たちは言われない蔑みの視線を向けられてきたといっても言い過ぎではないでしょう。

ゆとり世代」は低学力? 決してそんなことはないでしょう。件の投書がその何よりの証拠です。自分史を大きな歴史の流れとリンクさせてとらえる視点は、試験で高得点を挙げるスキルに長けた秀才たちのよくもちうるところではありません。私はこの投書に「知性」の存在を感じます。もしそう言ってよければ、それは「血の通った知性」です。だからこそ、多くの人の共感を得て、シェアされているのです。論理的説明責任を回避し、自己正当化に汲々とするだけの政治的言辞の空疎さとは、対極にある「知性」です。

そして、それは、安保法制=戦争法案反対を唱え、日本の民主主義の最前線に立ってくれているSEALDsをはじめとする若者たちに共通する知性だとも感じます。自分の考えや思いを自分の言葉で語れる彼らや彼女らを、学生の頃に修得した政治的言語を離れては自分の主張を展開しえない私は眩しくもうらやましくも感じます。既存の運動とはひと味もふた味も違ったユニークな発想と実行力で活躍する「ゆとり世代」の若者たちには、奇しくも「課題発見」「解決能力」という「ゆとり教育」の成果が体現されているように思うのです。

第一次安倍内閣が葬り去ろうとした「ゆとり教育」の成果が、今、安倍政権を確実に追い詰めようとしています。 快哉を叫ばずにはいられないではありませんか。