南方熊楠と柳田國男

7日の金曜日に県立図書館に予約していたブルース・カミングスの『朝鮮戦争の起源』を受け取りに行ったところ、カウンターで南方熊楠柳田國男の映像資料上映のチラシを見つけ、図書館員にも勧められ、翌日同図書館多目的ホールで視聴した。映像は南方、柳田にそれぞれ分かれていて、前者が谷川健一、後者は後藤総一郎監修によるもので、20年以上も前に編集されたもののようだ。学生時代に両監修者の著作は多々読んでいたので、内容的には目新しいものはなかったが、新体詩詩人時代の柳田、つまり松岡國男の「歌の別れ」の謎のひとつとされた「失恋」の相手の名が明示されていたのは、知らないことだった。会場には、かつて末席を忝くした寺小屋教室「柳田國男研究会」のメンバーの著作も並んでいた。

ところで、いわば生得的にインターナショナルな地平を奔放に疾走した南方熊楠と、日本人のレゾンデートルを求めて執拗な掘削を試みた柳田國男の営為を接続する知的冒険は、今日の日本の現状のなかでどのような意味を持つのだろうか。いやそもそも、そのような試みが成立する前提がもはや失われていやしないだろうか。そう思いながら映像を見ていたのだが、残念ながら二つの映像資料の中に、私の疑問を解きほぐす契機を発見することはできなかった。民俗学は、国家主導の「近代化」に対する拠点となりうる可能性を依然として手放してはいないのだろうか。日本民俗学成立の始点を、南方熊楠柳田國男の稀有なる出会いに、つまりは、明治国家が強行した神社合祀政策への反対運動における協力関係に置くとき、この学問が本来持つべき、そしてもしそれを手放せば学問としての存立基盤を崩壊させてしまうような存在理由を再確認できるのではないかと、ふと思ったのだが、いかがなものであろうか。

いまや、ネーションとステートの分離どころか、後者が前者を侵食し尽くしてしまった現実が眼前に展開する。まさに「時代閉塞の現状」である。個人と国家のあいだに設定されるべき中間項が消え失せてしまい、国家と民族を巡る言説は、劣化と退廃の末に、暴力性をむき出しにしている。ネーションを凝視し続けた柳田國男と、軽やかにそれを飛び越えながらインターナショナルな地平にナショナルなるものの可能性を発見して見せた南方熊楠を、伝記研究の一エピソードに終わらせない視点を持ちたい。

関東大震災時朝鮮人虐殺

先週末の9月1日土曜日、横浜久保山墓地の関東大震災朝鮮人虐殺95年神奈川追悼大会にボランティアとして参加した。雨が懸念されたが杞憂に終わり、式は滞りなく終了。神奈川朝鮮中高級学校の生徒による合唱や在日の舞踏家の慰霊の舞、各団体からのアピール等で構成された式は、160名あまりの列席者に深い感銘を与えたと思う。夜は韓国YMCAでの講演会にも、と思っていたが、疲労と睡眠不足でこちらは足を運ばすじまい。後になって、惜しいことをしたと後悔する。東京をはじめ各地でも慰霊祭が執り行われたが、都知事は今年もメッセージを発せず、歴史修正主義の団体の妨害もあったらしい。

虐殺は、震災後のパニック状態に官民ともどもに陥り、流言蜚語の跋扈が正常な判断さえ行えないような、精神的崩壊状態の中で起こったことは間違いないだろうが、権力者側が、体制転覆の動きへ流動化しかねない民衆の心理を在日朝鮮人への敵意へと誘導していった側面も否めない。加えて、日本人全体がそうではなかったにせよ、サディスティックな陶酔を求めて狂暴化しうる心性を進んで顕在化させていった人間が存在した、という事実から目を背けるわけにはいかない。そして、それが決して過去の特殊な状況がもたらした極端な事例ではないということからも。その心性を受け継ぐ個人や集団が、確実に今の社会にも存在するのだから。

猛暑のなか、高等学院の授業再開。真面目に全員出席。3年生の自覚のなせる業か?夏休み前の最後の授業での課題を提出してもらったが、こちらの意図が理解されていないのがはっきりわかる。他者の立場を想像し、思いやって書く、というのが苦手なのか。主観を保留する訓練が足りないからか。性善説はダサく、性悪説がカッコいい、というような性向も見え隠れする。指導上の課題がまた新たに見えてきた。

初沢亜利さんの写真集『隣人、それから』を見せつつ話をしたが、こちらにはかなり関心を見せてくれた。この世代には、揶揄の対象としての北という先入主が色濃くみられる。しかし、写真を通してビジュアルに触れる「北」はまた違った認識を促してくれることだろう。

川崎市に「人種差別撤廃条例」の制定を求める署名の呼びかけの周知を、藤沢Yの館長に依頼。快諾してもらう。バーターで、チャリティーウォークの依頼を受ける。ボランティアで、つまりノーペイでということ。また、学校訪問への助力を要請される。これもイエス

古関彰一、豊下楢彦共著の『沖縄 憲法なき戦後』を読み始める。読み応えのある本だ。

先週から、明治150年について、講演等に参加しながら、自分なりに考えている。

明治150年は、植民地帝国主義の150年。植民地帝国主義国家のデザインは、直接的にはいわゆる「欧米列強」をモデルにしたが、そもそも日本の歴史自体に植民地帝国を目指す傾向を発芽せしめるDNAが内在していた。その点では、1879年の「琉球処分」(「処分」という言葉は明らかに不適切だが)が注目される。軍隊・警察の暴力を背景に受け入れを迫る手口が、朝鮮に対するそれに先鞭をつけたかっこうとなっており、その後薩摩閥の県令が専横を極める統治形態は、慶長年間の薩摩の入寇に淵源を持つ。薩摩入寇が、秀吉の朝鮮出兵の余波だとすれば、この辺りから日本の歴史に潜む怪しげなDNAが見出されるのではないか。世界史的には、ちょうどスペイン・ポルトガルをはじめとする初期植民地主義の時代と重なるわけだ。(この世界史云々は、土曜日に聞いた慎蒼宇氏の指摘)

このDNAを自覚化することで、植民地主義清算のとっかかりが作れないだろうか。 

六十三歳

63になった。ふと思い出したのが、小学生の時(たぶん3年生だったか)に読んだ豊臣秀吉の伝記。NHK大河で太閤記(緒方拳主演でした)をやっていたので読んだのだろうが、享年63歳だったのを記憶している。子どものころに仰ぎ見た年齢になったというわけだ。まあ、そんなことはどうでもいいのだが・・・・・・。

朝から天気もいいので、ここ2週間余り腰痛で休んでいたランニングを再開。20分走で3キロ。初夏の日差しを浴びながらの久々の汗で、気持ちがいい。

退職後の新生活も一月、予定外の仕事も入ったが、おおよそ充実した日々と言えそうだ。

時間のゆとりに恵まれて、読書時間もたっぷりある。現在、金石範선생の『火山島』を読んでいる。全7巻中ようやく4巻目。先は長いが、読み始めるとどんどん作品世界に引きずり込まれていく。日本語で書く文学者のなかでこれほどの筆力を持つ作家は、ちょっと見当たらない。読了後、改めて読後感を記してみたい。

夕方、息子が一緒にサッカーをしてくれた。何よりの誕生日プレゼント。呵呵大笑。

 

ゆとり世代の逆襲

ゆとり世代とは、2002年から2003年にかけて導入された学習指導要領のもとで小中高校生活を送った世代だと記憶しています。 そんなことを突然思い出したのはフェイスブックでシェアされた22歳の大学院生の新聞(朝日新聞だったと思います)への投書の中に「ゆとり世代」という言葉が使われていたからでした。

私たちは、平成の時代に生まれた。生まれた時、すでにバブルははじけていた。小学校の時、突然、「ゆとり世代」にさせられ、イラク戦争が起きた。中学生の時、リーマン・ショックがやってきた。高校生の時、東日本大震災に遭った。大学生の時、二度目の安倍内閣ができた。(中略)

少子高齢化の今、私たちは増え続ける高齢者と傾き続ける経済を「ゆとり世代は駄目だ」と言われながら支えなければならない。若者たちの生活は保障されていないのに、たくさん子どもを産み育てろ、という。(投書からの引用)

ゆとり世代」という言葉が、批判や揶揄のニュアンスを帯びたタームとして使われだしたのは、いつごろからだったのでしょうか。当初は、つめこみ教育へのアンチ・テーゼとして、いじめや不登校などの問題へ対処する目的もあって導入されたというのが、「ゆとり教育」の意義だったはずです。そこでは「課題発見と解決能力を養う」というスローガンが高々と掲げられていました。

しかし、「ゆとり教育」は自民党文教族を中心とする勢力から、学力低下の元凶という汚名を着せられ、真にその成果を生み出す前に、まさに「赤子を盥の水と一緒に流す」が如くに捨て去られてしまいました。教育基本法の改悪に着手した第一次安倍内閣が「ゆとり教育」を葬り去ったのです。以来、「ゆとり世代」と名指しされることで、彼らや彼女たちは言われない蔑みの視線を向けられてきたといっても言い過ぎではないでしょう。

ゆとり世代」は低学力? 決してそんなことはないでしょう。件の投書がその何よりの証拠です。自分史を大きな歴史の流れとリンクさせてとらえる視点は、試験で高得点を挙げるスキルに長けた秀才たちのよくもちうるところではありません。私はこの投書に「知性」の存在を感じます。もしそう言ってよければ、それは「血の通った知性」です。だからこそ、多くの人の共感を得て、シェアされているのです。論理的説明責任を回避し、自己正当化に汲々とするだけの政治的言辞の空疎さとは、対極にある「知性」です。

そして、それは、安保法制=戦争法案反対を唱え、日本の民主主義の最前線に立ってくれているSEALDsをはじめとする若者たちに共通する知性だとも感じます。自分の考えや思いを自分の言葉で語れる彼らや彼女らを、学生の頃に修得した政治的言語を離れては自分の主張を展開しえない私は眩しくもうらやましくも感じます。既存の運動とはひと味もふた味も違ったユニークな発想と実行力で活躍する「ゆとり世代」の若者たちには、奇しくも「課題発見」「解決能力」という「ゆとり教育」の成果が体現されているように思うのです。

第一次安倍内閣が葬り去ろうとした「ゆとり教育」の成果が、今、安倍政権を確実に追い詰めようとしています。 快哉を叫ばずにはいられないではありませんか。

映画「うりずんの雨」

ジャン ユンカーマン監督の映画「うりずんの雨」を岩波ホールで観た。二時間半の大作。沖縄について知識として分かったつもりになっていたことが、映像と証言を突きつけられて、根底から揺すぶられた思いだ。腐敗した日本兵の死体を踏んでしまった体験を語る元アメリカ軍人の証言があったが、その時の感覚を七十年後の今も忘れられずにいる。衝撃だった。そして「アメリカは沖縄を戦利品として扱った」と言うナレーションが耳にこびりついて離れない。 映画の後、浅草公会堂で開催されていた「五十余名の証言で知る沖縄戦展」に足を伸ばす。集団自決に触れた証言が数多くあった。また、良心的な軍人はいたにせよ、日本軍が組織的に沖縄住民を守る意思を持たなかったことを改めて認識した。投降より自決を選ぶ住民が多くいたと言う事実に国家主導の教育の怖さを感じた。これらの証言が、教育の場で公開され、若い世代に継承され、国民的な記憶として共有されることを心から願う。

木曜集会

仕事を終え、午後六時半からの木曜定例の「戦争法案反対国会前集会」に藤沢から急ぎ駆けつける。5回目になるこの集会、参加は初めてだが、回をおうごとに参加人数が増えているようだ。今回は瀬戸内寂聴さんも参加してスピーチした。中高年男性が多い中、女性や若者の姿も目立つ。戦争を体験しておられるかとお見受けする高齢の女性もいらっしゃった。それぞれの人たちが、それぞれの立場から危機感を感じているのだ。国会の会期延長を阻止し、戦争法案を廃案にするために今週から来週にかけて、多くの集会やデモが予定されている。私も現場に立って声をあげていきたい。